2004年09月30日

恐怖

大阪で暮らしていた頃は、真っ暗闇なんてなかった。



ニュージーランドで、夜ふと目を覚ます。真っ暗だ。月が出ていない日は特に、外からの光も入ってこないので、目を開けてもつむっても、同じくらい暗い。

怖い。暗闇に何かがいるかも知れないのが怖いのではなく、ただ暗闇に恐怖を感じる。

昔、ダウンタウンがまだ漫才をやっていた頃、どっちが怖いか、というねたをやっていた。

「血」と「う○こ」とどっちが怖い?

当然「血」や。道を歩いていたら頭から血を流した奴が向こうから歩いてきたら、むっちゃ怖いやろ。「う○こ」なんか全然怖いことあらへん。と相方が答えると、
ほな、道を歩いていたら頭から血を流した奴が向こうから歩いてくるのんと、道を歩いていたら頭にう○こをのせた奴が向こうから歩いてくるのんと、どっちが怖い?ともう一方が聞く。

私は、「道を歩いていたら頭にう○こをのせた奴が向こうから歩いてくる」方が、断然怖い。考えただけで怖い。頭から血を流した奴には、「どうしたんですか!頭から血が出てますよ!」と声をかけられるが、頭にう○こをのせた奴には「どうしたんですか!頭にう○このってますよ!」とは声をかけることはできない。

なぜ、「道を歩いていたら頭にう○こをのせた奴が向こうから歩いてくる」のは怖いのだろう。暗闇が怖いのと同じ怖さなのだろうか。

暗闇が怖いという人はたくさんいる。また、「道を歩いていたら頭にう○こをのせた奴が向こうから歩いてくる」のが怖いという人も、たくさんいるだろう。人間以外の動物も暗闇を怖がる。でも、人間以外の動物は「道を歩いていたら頭にう○こをのせた奴が向こうから歩いてくる」と怖がるだろうか?きっと怖がらないだろう。それどころか、ふんころがしなんかは、喜んで寄って行くだろう。

では、「道を歩いていたら頭にう○こをのせた奴が向こうから歩いてくる」のに恐怖を感じるのは、人間独得のものなのか。ということは、動物的な本能ではないということか。じゃあ、人間の赤ん坊は「道を歩いていたら頭にう○こをのせた奴が向こうから歩いてくる」のを怖がるだろうか。これはたとえ、試しにやってみたとしても、赤ん坊に聞くことができないので、怖いのかどうかわからない。赤ん坊が「道を歩いていたら頭にう○こをのせた奴が向こうから歩いてくる」のを見て、突然泣き叫んだとしても、それが恐怖から来るのか、喜びの表現なのか、単におなかが減っているのか大人としてはわからない。

「道を歩いていたら頭にう○こをのせた奴が向こうから歩いてくる」のが怖いのは、「道を歩いていたら頭にう○こをのせた奴が向こうから歩いてくる」ということは怖いことだと、子供の時に学習したからだろう。恐怖には学習して身につくものもある。小さい時、刃物を持ってもあまり怖いとは感じなかった。母親から、「危ない!」などと何回も言われて、刃物は危ないもの→怖いものという感覚が植えつけられたのだと思う。

でも、小さい頃「道を歩いていたら頭にう○こをのせた奴が向こうから歩いてくる」状況に遭遇したことはないし、母親に、「道を歩いていたら頭にう○こをのせた奴が向こうから歩いてくる」ことがあっても絶対に近寄ってはいけません、などと言われたこともない。なのになぜ、「道を歩いていたら頭にう○こをのせた奴が向こうから歩いてくる」のが怖いのだろう。どうやって学習したのだろう。

「道を歩いていたら頭にう○こをのせた奴が向こうから歩いてくる」という部分を何回も何回もコピペして、この文章を時間をかけて書いている私自身も、きっと怖がられるに違いない。

(河)


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2004年09月20日

ニュージーランド人

ニュージーランドに暮らしている日本人が、「ニュージーランド人の仕事はいい加減だ」とか「ニュージーランド人は不器用だ」とか言うのをたまに耳にする。

確かに、銀行で紙幣をコインに両替しても、2ドル足りない。「2ドル足りなかったよ。」と言いに行くと「ウップス。ソーリー。」と言って2ドルくれたことも何回かあった。また、仕事で、「じゃあ、明日連絡するよ」とニュージーランド人に言われて、1週間後に平気で連絡してくる人も何人かいた。

しかし、みんながみんなそんな人ではない。2001年にレストランの店舗を移転した時に、新しい物件を探してきてくれたJさんの仕事は、速くて正確だった。その上彼は誠実だった。「この通りで、このくらいの広さで、このくらいの値段のところを探したい。」と言うと、次の日には候補を挙げてくれた。また、「あそこの物件は交渉したらサブリースをしてくれるか?」と聞いたときは、私とのミーティングが終わったその足で交渉しに行ってくれた。もちろん、その日の内に結果の連絡が来た。また、エレクトリシャンのSさんは、ブレーカーがとんで停電して困っている時に電話したら、イースターホリデー真っ最中にもかかわらず、30分で来てすぐ直してくれた。

もちろん、仕事だから当たり前といえば、そうなのかもしれないが、少なくとも私が出会ったこれらの人に「仕事がいい加減だ」とか「不器用だ」とかいう評価は当てはまらない。日本人でもいい加減な人はたくさんいるし、ニュージーランド人でもきっちりしている人は多い。

当たり前のことだが、「〜人」というくくりは、あまりにも大雑把過ぎる。日本人でもいろんな人がいるように、ニュージーランドにもいろんな人がいる。「○○人は××だ。」というのは、一部あたっているが、全てはそうではない。

その人が生まれ育った環境、受けた教育、現在属している組織などが、考え方や性格に影響を与えるのは確かだ。だから、国民性とか、地域性とかいうものはある。しかしそれは、「なんとなくこんな感じ」という程度の、どちらかといえば抽象的なものであって、「だからこの人達はこうなのだ」というものではない。

私が、「ニュージーランド人は〜」という言葉を聞く時に感じる違和感は、「私は日本人だから彼らとは違うのだ」という感覚をその裏に感じることから来るのかも知れない。「私は彼らとは違う」、「われわれは彼らとは違うのだ」という感覚。そこに、わずかではあるが、何か危険な香りを感じるのは、私が過敏なだけではないような気がする。

(河)
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2004年09月10日

人間は考える葦である。

いろんなことを考える。朝起きて、「今日は何を着よう。といってもそんなに選択肢もないなぁ。とりあえず昨日と一緒でいいか。そういえば、一昨日も一緒の服だったな。ちょっとにおってみよう。うん、なんとなく臭う気もする。まあいいか。この人くさいと思われても、別に気にしなければいいし。でも、今はこの程度のにおいだけれど、夕方になったらもう少し酸っぱい感じになるかもしれないな。じゃあ、別の服にしよう。」などと考える。昼になったら、「腹減ったな。今日は何食べよ。どんぶりなんかいいな。あ、腹がグーッと鳴った。でも、ここでいっぱい食ったら、さらに体重が増えるかな。今日は軽くサンドイッチでも食らうかな。それじゃあ昼からの仕事に差し支えるか?どうしよう。」などとも、考える。

この間、一言もしゃべっていない。けれど、頭の中では確実に「言葉」で考えている。「キョウハナニヲキヨウ。」と、一言ずつ「頭の中でしゃべって」いる。

人間は言葉で考える葦である。

言葉を使わずに考えることは可能か?「言葉を使わずに考えることは可能か?」と考えるのも言葉だ。言葉を使わずに考えようとしてみる。「・・・・・・・・・・。」それがどのようなことなのかさえわからない。足がかりもない。それではと、普段使っていない言葉を使って考えてみる。英語でいろいろ考える。だめだ。まったくだめだ。「I'm hungry.」腹減った感じがしない。腹減ったときは「腹減った」と考えないと、「I'm hungry.」では腹減らない。思い切って、ロシア語で考えてみる。不可能だ。「パルナス、ピロシキ、モスクワ」と、ここまで頭の中で搾り出して、その後、「うーん、わからん」と日本語になってしまった。

ニュージーランドに住んでいると、日本という国が特殊な国に見えることがよくある。世界の東の端の小さい島国。人口1億人以上。独自の文化を持ち、経済大国である。そして、世界で唯一日本語が公用語の国。日本ではほとんど全ての人が毎日毎日日本語で考えている。朝起きてから夜寝るまで頭の中は日本語だ。普段は日本語でしゃべり、新聞も日本語で読む。いろんなことを日本語で考えている人が集まって暮らしている国は、世界中で日本だけである。

ニュージーランドで、「お前、あほちゃうか」と言っても、にこにこしながら言えば相手は怒らない。「オマエアホチャウカ」の意味がわからないからだ。それは、いつも頭の中で考えていること、日本語で考えていることを、そのまましゃべっても通じないという意味だ。相手の頭の中は英語がつまっている。



「日本語と英語で考える葦」への道は遠い。

(河)
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